三津田治夫の「本を持って、街に出よう!」

人生を変えるインパクトのあるオススメ本を、長年本を生業にしてきた出版プロデューサー三津田治夫がご紹介。さあ、良き人生に変えるために、本を持って街に出よう!

文学作品を読み、「共感力」を高める。『白痴』『堕落論』(坂口安吾 著)

「共感の時代」といわれるいまこそ、文学作品の価値は高い。「小説を多く読むことが他人の心理状態の理解につながる」という研究成果があるそうだ。文学作品を通じ、他者の考えについて想像することができるようになる。そんな文学作品の中から、「いま」を読み解くヒントになる、昭和の日本文学の作品を、読書会の記録からご紹介します。
今回の知の「本」ブログ「文学作品を読み、「共感力」を高める。『白痴』『堕落論』(坂口安吾 著)」では、システムエンジニア歴4年、編集者歴27年、ツークンフト・ワークス代表出版プロデューサーの三津田治夫氏が「いまの時代を豊かに生きていくために文学作品を読む」を考えます。

というわけで今回は、昭和の作家、坂口安吾の文芸作品『白痴』『堕落論』を取り上げる。これらは第2次世界大戦中の日本を舞台にした安吾の代表作。以下内容は、某月某日、都内某所で開かれた読書会の記録からお届けする。

「安吾は女性を神格化したロマンチストだ」という、読書会メンバーの一人、某名門文学部出身の才媛M女史の発言が、この場の空気を一転させた。これは、安吾のほぼすべてを物語っている。

『白痴』は、戦時下の貧民窟で、知的障害を持つ女性が「肉体(身体)のみの女」として描かれている半幻想文学作品。女性の描き方からも表面的には女性蔑視と取られがちだが、安吾はそこに、肉体への神秘的な愛やあこがれを描きたかった。

私は副読本として『二七歳』を読んでいた。
これは、安吾の婚約者である作家、矢田津世子との出会いと死別までが描かれた自伝的短編。
安吾は旅館で知り合った仲居の女子やカフェの女給とすぐにできてしまいお泊まり旅行を気軽に繰り返すが、なぜか、矢田津世子には指一本触れない。
安吾は「別れ際に一度だけ接吻した」と告白しているが、それ以外、矢田津世子には指一本触れない。そんな幕引きで、安吾と矢田津世子は別れた。

戦後、遺族から彼女が死んだことが告げられる葉書が舞い込み、『二七歳』は終わる。
安吾は、矢田津世子を最高の女と見ている(どんな容姿かは、検索してみてください)。
矢田津世子を神聖視しているからこそ、「彼女には指一本触れなかった」としている。
安吾のなにかのエッセイに、「矢田津世子の肉体に煩悶した」という記述があったことを記憶する。きっと彼は、まるで少年のように、妄想との戦いに苦しんだことが想像ができる。

「安吾は女性を神格化したロマンチストだ」という、読書会冒頭での才媛M女史の発言が、ここでつながった。

『白痴』の中で、男の部屋に転がり込んできた女が、夜になり、男の布団の中に潜り込んできたが、指一本触れられなかったことに女が憮然としてしまうシーンがある。これには間違いなく、矢田津世子との安吾の体験が反映されている。

戦時下の日本を題材にしたエッセイ『堕落論』は、日本人は堕ちることで本質を見出せるはずであり、国家や制度、組織、軍隊というシステムではなく、この敗戦を機に日本人は「人間そのもの」に立ち返るべき、という論旨。

読書会では、当時は戦争という身体の危機にさらされていたが、「現代の危機はなにか?」という議論になった。

いまの日本人に最もリアリティの高い危機に「天変地異」がある。あとは、「起こりうるハイパーインフレ」という意見もあがった。これも安吾の論旨に立ってみたら、ハイパーインフレはシステムの問題であり、人間そのものの問題ではない。

ハイパーインフレが起こってすぐに人間が死ぬということはないが、精神的には深刻な危機が訪れる。金融の危機は、「もういままでの生活ができない」という、人間に対する未来への恐怖感を打ち出す。

とはいえ、見方を変えれば、いままでには存在しない「新しい生活」を選択するチャンスでもある。こう考えると、ハイパーインフレは大変な危機だという意識は、「敗戦したら大変なことになる、天皇制が崩壊したら大変なことになる」という、安吾の時代の日本人が抱いていた「危機」と、まったく同質ではないか。『堕落論』を読みながら、そんな話をしていた。

読書会のよくないところは、うんちく(知識のひけらかしあい)に終始してしまう点にある。
こういった弱点を回避しようと、今回は、各参加者の「本心」を言葉にしてもらうことにした。

ある意味本心をさらけ出すことは、気心が知れているとはいえ、大人の世界では危険が伴う。
内面からわき出た本心をあえてブロックし、世間が期待する自分、自分が期待する自分に「執着」して生きている大人は大多数だ。皮肉にもそれが「大人」の定義であったりもする。

しかしこの読書会は今回で13回を迎えたのだから、そろそろ自分という人間性の「内面」を共有してもよい時期なのでは、とも思った。

で、安吾の作品を読んで直感した、人生に対する本心の言葉として出てきたものは、「なるようになる」「これでいいのだ」だった。知的な男女たちが集まる場にしてはあまりにも素っ気ないというか、あまりにも素朴な発言に驚いた。

しかし多くの作品に触れて、「なるようになる」「これでいいのだ」という発言がこの読書会で出るというのは、非常に奥が深い。

人が自分の人生に対して「なるようになる」「これでいいのだ」と思えることは、最高の幸福だ。つまり、現在と未来に起こることすべてを受け入れている状況が、「なるようになる」「これでいいのだ」である。

どんな幸福も、どんな不幸も、事象として、ありのままを受け入れる態度。「なるようになる」「これでいいのだ」は、人間が執着から解放された、最も自由な状態ともいえる。

そんな意味で今回の読書会は、参加者全員の個人としての内面がはじめて表明された、貴重な会であった。

今回は読書会の様相を通し、昭和の文芸作品を取り上げた。

こうしたさまざまなエントリーを通して、本ブログが、書物とITの橋渡しとなり、「共感の時代」を生きるエンジニアやリーダーたちの糧になれば幸いである。

古代ギリシャから読み解くリーダー論:『国家』(上・下)(プラトン著)

書店のビジネス書棚に向かえばリーダー論に関する書籍が大量に置かれています。政治でも企業でも、どんなリーダーが理想的なのか、しばしば議論がなされています。そんな議論の一つの解を、古代ギリシャの哲学者の作品からご紹介します。
今回の知の「本」ブログ「古代ギリシャから読み解くリーダー論:『国家』(上・下)(プラトン著)」では、システムエンジニア歴4年、編集者歴27年、ツークンフト・ワークス代表出版プロデューサーの三津田治夫氏が「リーダーシップとはなにか」を考えます。

今回は、日本人が渇望するリーダーのあり方・考え方に対し、その源流となる書物をひもといてみたい。ビジネス書にも少なからず、こうした古典のエッセンスが流れている。では、読んでみる。

『国家』は、人間個人が持つべき知恵やスキルを究明し、それを国家レベルにまで拡大し、どうしたら国家が理想の人格を持てるのかということを、ソクラテスに語らせた作品。

国家は知的な人間が統治すべきという哲人宰相を理想とするのがプラトンの理想とする国家。
プラトンが生きた古代ギリシャの時代も、知的でない人間が国家を統治していたゆえ、このようなものを書かざるを得なかったのだろう。

人が身につけるべき教養や素養、学問など、国家の構成員としての国民のあるべき姿や、内実のない雄弁に耳を傾けてはいけないといった警句など、国家のあるべき姿、あってはならない姿が、現代人の私たちにもわかりやすい比喩で語られている。

その中でも最も印象深いのが、「民主主義は独裁政治の一歩手前で、かなりやばい」、というお話。

自然状態に生きる人間の間で争いが起こると、民族は分断され、土地や財産が分断され、私有財産が生まれる。

私有財産が生まれると今度は財産を持つ者の中から新しい集団のリーダーが選ばれる。

そこで成立するのが寡頭政治で、少数の富裕層が莫大な財産と共に権力を掌握する。

彼らは自分の権力と財産が減らないような政策をとり続け富と権力を強固にする一方で、財産を持たない者との二層構造もさらに固定化される。そこでまた争いが起こる。

すると財産を持たない者は、「能力」を持つ者による自由な政治を求めた集団を形成しはじめる。

これが民主主義のはじまりで、人々は財産によらない「能力」による自由な政治の社会に生きることになる。

しだいに、自由に慣れた人々の自由は「奔放」へと変化する。不自由である自分や、他人の自由との格差に人々は不満を抱き、勝手な主張をはじめ、社会が混乱へと向かう。

すると今度は、混乱した社会をとりまとめてくれる強烈な支配者を人々は求めるようになる。
その混乱の渦中に登場するのが、独裁者である。

独裁者は混乱こそが自分の存在基盤なので、戦争や内乱状態を意図的に作る。
そして独裁者は自分の地位が奪われる恐怖にたえずおびえているので、国民を暴力で押さえつける。

ゆえに独裁政権は最悪なのだ、と、ソクラテスは語る。

「民主主義の混乱の渦中に登場する独裁者」と聞いて、世界一民主的な憲法を持つと言われたワイマール共和国時代のドイツに登場したヒトラーを思い出した。彼のその後の行動は歴史がすでに示している。

人々の謳歌したはずの自由がいつしか奔放になり、しまいには自分勝手になってしまうという民主主義の没落もソクラテスの時代から何度も繰り返されてきたことで、自由は放任していたら混乱に陥るという教訓が何千年と受け継がれている。それにより、契約においてこそ自由は成立するというルソーの社会契約論や、自由とは自分が他人の自由を保証することというカントの平和論などが生まれたわけだ。

ソクラテスやプラトンの生きた多神教の古代ギリシャの世界から彼らの知恵はローマを経由し、一神教であるキリスト教と共にヨーロッパに広まった。いまのような科学万能ではない時代、宗教と共に学問が伝わったものだが、ヨーロッパでは宗教の原型が解体された形で学問が伝わっていったという点が興味深い。まあ、この辺は世界史の領域になろう。

支配者もしくはリーダーとはどうあるべきかを考える上でも、さまざまな支配のタイプを知る上でも、紀元前に成立した古典中の古典は、現代日本の混迷した社会と政治を理解し語る上でも、非常に参考になるテキストである。

AI・人工知能に「意識」は生まれるのか? 『意識と本質』(井筒俊彦 著、岩波文庫

AIが日常に普及するなか、「はたして人間が考えるべきことはなにか?」という疑問がしばしば出てきます。
そんな疑問の一つを呈した日本の宗教学者の作品を、読書会の記録からご紹介します。
今回の知の「本」ブログ「AI・人工知能に「意識」は生まれるのか? 『意識と本質』(井筒俊彦 著)」では、システムエンジニア歴4年、編集者歴27年、ツークンフト・ワークス代表出版プロデューサーの三津田治夫氏が「人の意識とはなにか」を考えます。

某月某日、都内某所で開かれた読書会のテーマは、『意識と本質』だった。
AI・人工知能に「意識」は生まれるのか。
そもそも意識とはなんなのか。この本を通して考えてみたい。

本書のテーマは書名の通りで、非常に明確なフレームワークが冒頭数十ページで示されている。一つの柱が精神の形而上学で、もう一つの柱が宗教学。前者では本質を捉えようとする意識と言葉の断絶を「分節化」というキーワードで解き明かし、後者ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教という、旧約聖書派生の宗教と、ヒンズー教・仏教・禅・儒教という東洋発生の宗教の相違点と一致点を、「意識」のモデル化を通して解き明かそうとする。

「分節化」とはつまり、意識を言語化する行為。元々言葉のなかった世界の事象に言葉が与えられることにより、分節化ははじまる。たとえば、日本一高い山という意識は言葉のない時代からあったが、ある時点から「富士山」という言葉が生まれた。しかし日本一高い山という明確な意識がある一方で、「富士山」という言葉はあの山のどこからどこまでが対応するのかという疑問も生じる。それが、分節化の限界である。
人体にしてもそうで、「首」や「手のひら」という言葉があるにもかかわらず。どこからどこまでが首なのか、どこからどこまでか手のひらなのかは、漠然とした共通認識しかない。

作者はそうした言語による分節化の限界を示しつつ、分節化の底に横たわる本質を捉えようとする「意識」に光を当てる。意識把握の筆頭に、作者の独壇場であるイスラム教を取り上げる。イスラム教の思想には事象把握の方法が2種類あり、一つは対象そのものを把握することと、もう一つは対象そのものの普遍的な性質を把握すること。東洋発生の宗教にも、同じく、事象そのものの把握と、事象を構成する元素の把握という2つのアプローチがある。これらを、フランスの詩人マラルメとドイツの詩人リルケの作風の対比において説明する。

マラルメの詩が表層的な描写を通して表層を超えた次元の印象を読者に与えるのに対し、リルケの詩は心の動きそのもの、心の底から湧き上がった感情をそのまま言葉に投影する。つまり意識には、表層意識と深層意識があり、双方の意識を通して人間は本質の把握を試みる。

表層意識と深層意識の双方の取り扱いについて、作者は「禅」に注目する。禅は宗派によりさまざまな解釈があり、それぞれで考え方やアクションが微妙に異なっている。また、禅以前にも、中国天台宗の教典ではすでに禅の原型の考え方やアクションが明確に示され最澄によりそれが輸入されている。

禅とは、一言で言うと、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、新たな分節を再構築する考え方およびアクションである。それを実現するためのアクションが、坐禅である。ゆえに坐禅は言葉を好まない。
言葉をいったん解体するために、ひたすら黙って座る。只管打坐とはこのこと。それを繰り返すことで、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、言葉によって構築された世界の外へと出る。

その禅をさらに拡張させたものが、老荘思想に生まれた静坐である。人間にはある意識とある意識が切り替わる間に無意識の時間が生じる。それを「未然」と呼ぶ。修練を通して意識のコントロールができるようになると未然の占める時間の割合が増え、その間に意識は深層心理の原点(著者のいう「意識のゼロポイント」)にまで下降する。
こうした静坐といったアクションにより求められるものを「窮理」という。本質すなわち「理」を窮める行為である。

坐禅と静坐との共通項として、本質を掴むために深層意識(分節化されていない世界)と表層意識(分節化された世界)の双方をダイナミックに往来し、双方は再帰的、という点があげられる。
そして深層意識と表層意識の間には、意識を分節化(言語化)するタネ(著者のいう「言語アラヤ識」)が存在する。ユングのイマージュのモデルにこれを当てはめると、深層意識と表層意識の間に、下から順に原型(アーキタイプ)とイマージュがあり、この原型に同階層に意識を分節化するタネ(「言語アラヤ識」)が控える。言い換えると、ユング説によれば、イマージュもまた、意識の言語化の結果、である。

上にまとめたのは本書の根幹のみで、その他ユダヤ教のカバラやセフィーロート、密教など、東西の宗教を横断したダイナミックな論旨展開となっている。

読んでいてふと思ったのは、意識と本質についてこんなに深刻に考え込んで、そして結論らしい結論も得られず、一体なにが本論考の目的なのだろうか、と。
そうして自問を続けたどり着いたのは、自分の頭で意識と本質に迫ることが、まさに、自己認識のはじまりである、ということ。自分はどのような心を持って、自分は何者なのかという、自己認識である。そうした自問自答を通し、人は生きる意義や目的、幸福にたどり着くことができるのではないだろうか。

「動物は、直観することはできる。だが動物のたましいは、たましいを、つまり自己自身を対象にしているのではなくて、外的なものを対象にしている」というヘーゲルの言葉を思い出した。

人間は考えなくても生きていける。しかし、考えることにより世界に対して新しい視界が開ける。そして、より人間的に生きていくことができる。言葉でそれを促すのが啓蒙書の重要な役割だ。その意味で、本書は第一級の啓蒙書である。日本人の著した啓蒙書で、ここ20年ほどで最も衝撃を受けた作品。この本はきっと、2年後、5年後、10年後に読み返しても、そのときそのときで新しい印象を与えるに違いない。

意識の本質とは、人間が自発的に考える能動的な活動であり、こうした活動により、人間が血の通った人間として生きていくことではないか。そうした「意識との出会い」を与えてくれた作品であった。

ITは現代資本主義を救えるのか? 『最後の資本主義』(ロバート・ライシュ著)

貧富の格差が拡大し、いままでの資本主義ではもうダメなのだろうという論調が近年良く聞かれる。
そんな疑問の一つを呈したアメリカの経済学者の作品をご紹介します。
今回の知の「本」ブログ「ITは現代資本主義を救えるのか? 『最後の資本主義』(ロバート・ライシュ著)」では、システムエンジニア歴4年、編集者歴27年、ツークンフト・ワークス代表出版プロデューサーの三津田治夫氏が「これからの生き方とお金」を考えます。

これは、山積された問題を克服し、いま瀕死の状態にある現代資本主義を乗り越え、新しい資本主義を創り上げていくことをテーマにした本。

著者のロバート・ライシュは資本主義を、人類の持つ共有財産として捉えている。『最後の資本主義』という挑発的な邦題から資本主義を否定するネガティブな内容かと思いきや、むしろ資本主義を肯定し、問題提起と、これからの資本主義がどうあるべきかという考え方を提示し簡潔にまとめている。

「第二次世界大戦後の30年ほど、企業経営者たちは自らの役割を、投資家、従業員、消費者、一般国民、それぞれの要求をうまく均衡させることだと考えていた。大企業は実質的には、企業の業績に利害を持つすべての人々に「所有」されていたのである。」

かつてアメリカの企業は社会と共存していたが、いまではそれが大きく様変わりした。MicrosoftやApple、Facebook、Googleなどの巨大企業は強力なロビイストを抱え、議員たちへの働きかけを通じて自社の収益が最大化を図るべく法案を書き換える。本来、政府は企業のモラルと社会性の手綱を握る抑止力だったが、企業が抱える弁護士の能力は政府が持つそれを圧倒的に凌駕し、企業のロビイ活動にもはや手が出ない。政府は法的抑止をかけることができず、「自由主義経済」という建前のもと、特定の集団に利益が偏る経済格差社会が形成される。

「利益は取締役とオーナー投資家からなるごく少数の手に渡り、残りの人々は失業するか低賃金の仕事に就くため、生産されたものを買うためのカネは減っていく。……将来のモデルは、少数による無制限の生産と、それを買える人だけによる消費のような形態になると考えられる。」と、著者は資本主義のきたるべき末期症状を予測する。

持つものと持たざるものの格差の拡大を放任することで、かつてのヨーロッパの王族主義におちいりかねない点も指摘する。「王族的な富は必然的に政治力と経済力を高めていくことから、私たちの民主主義にとっても脅威となっていく。」としながら、「力を失いつつある九〇%のアメリカ人に政治的発言力を与える新たな政党という形で新しい拮抗勢力が生じる可能性がある。」と、第3の政党の出現を示唆する。

さらに、夢も希望もなくなった失業者の大集団が生まれることで、「全体主義や独裁主義の人材供給の場になってしまう」と、ライシュは不気味な予言を呈する。その前兆として、現在のアメリカを率いるトランプによるポピュリズム政権の出現が、ライシュの予言を証明しつつある。

経済格差に関して、さらに、データを交えて説明している。たとえば、「ニューヨーク連邦準備銀行によると、二〇一四年までに学費ローンは米国の債務全体の一〇%を占め、住宅ローンに次いで二番目に大きい」と、経済格差は教育にもおよんでいる。富裕層が通う大学は卒業生や父母から豊かな寄付を受け、大学の教育レベルは上昇する。同時に、学費の上昇や富裕層による限定的なソサエティの形成により富裕層外からの入学に制限がかかる。そこでまた教育格差が生じる。本来教育とは子供に靴を履かせるようなもので、人を社会に送り出すための基礎システム、いわばインフラである。カネの問題だけで、人の人生を大きく振り分ける教育に格差が出ること自体、社会として不健全である。

もう一つ、「おカネを持っているのは、その人の能力が高いから」「おカネを持たないのは、その人の能力が低いから」という、錯覚の物語が形成されてきたことをライシュは明らかにする。この意識が社会的通念になっている点では、日本でも同じである。

だが、ライシュはそれを否定する。つまり富裕層たちは、その経済力により、自分たちに有利な社会のしくみを作るための「交渉力」を行使しているだけで、お金を持つのは「その人の能力が高いから」ではなく、あくまでも「交渉力」を行使しているにすぎない。同じことは、労働運動の盛んだった1950年代、現在値に換算して30ドルの時給を獲得していたブルーカラーにも当てはまる例をあげる。「彼らが頭がよかったから30ドルの時給を獲得したのではなく、「彼らの持つ交渉力がそうさせた」のである。」、と。

ライシュの警鐘と共に、「アメリカという実験の国が自由の名の下で資本主義をここまで進めてきたが、どうもおかしな方向に行ってしまった。
世界の皆さん、これを一つの症例報告として見て欲しい。同じ轍を踏まずに、最後の資本主義を乗り越え、ポスト資本主義を作っていきましょう。」という、彼の叫び声が聞こえてくる。

いまのところ日本はアメリカほど過激な(自由)資本主義ではないが、多かれ少なかれ、上記のようなアメリカ流の貧富格差は、日本国内にも刻々と組み込まれている。

同時に、世界のあらゆるシステムは刻々と激変している。国家や政府という実体以外に、ネットという仮想空間の中に「ソーシャル」が形成されている。貨幣という実体以外に、ネットという仮想空間の中に、ビットコインやカード決済、ネット銀行などの「仮想通貨」が流通している。
さらにいまは、そこにAI(人工知能)の技術も加わっている。そうした、いままで人類が見たこともない社会的枠組みを持つ現代、資本主義社会以前に存在した「王族主義」がそのまま再来することはあり得ない。とはいえ、人間からの自由を剥奪するに酷似した構造が出現しつつあるのは、紛れもない事実である。

この本を読んで改めて直感したのは、「最後の資本主義」を乗り越えた人類の未来の幸福は、人間と仮想空間とのかかわり方にかかっているのではないか、ということだ。

仮想空間を「道具」として利用する知恵をいかに持つかが、人類の未来の幸福を拓く一つの鍵ではないか。これは大きな課題である。

マルクスの大解剖で本質が暴かれ、ケインズの再定義により現在にいたる現代資本主義とその世界。それを、救われるべき「最後の資本主義」として定義したロバート・ライシュ。今度は日本から、資本主義を救済し、人類の未来の幸福を拓くモラルと文化が生まれることを、強く願っている。

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この記事を書いた人

三津田

三津田 治夫

株式会社ツークンフト・ワークス 代表出版プロデューサー。
2000年〜2018年までは書籍編集者、副編集長として従事。
出版実績においては社内アワード、業界賞などを受賞。
メディア作りとファシリテーションの強みを生かし、株式会社ツークンフトワークスを設立。同社出版プロデューサーとして活動を開始。

  • DXスタートアップ革命
  • ゼロから理解するITテクノロジー図鑑
  • 現場至上主義 Spring Boot2徹底活用
  • プログラマのためのディープラーニングのしくみがわかる数学入門